シベリア抑留犠牲者追悼の集い

8月23日、国立千鳥ケ淵戦没者墓苑で行われた「戦後71年・第14回シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」に自民党を代表して出席した。二階幹事長の挨拶文(私が作成)を代読し、私からの言葉も添えた。DSC09336

抑留者らでつくる「シベリア抑留支援・記録センター」の主催。終戦後の1945年8月23日にソ連軍最高指揮官スターリンが、日本軍捕虜をシベリアなどに移送、収容して鉄道建設など強制労働に従事させることを極秘に指令したことが、1992年(平成4年)になってわかり、この日に開催されている。 …続きを読む

シンクロ団体も銅メダル!おめでとう!

美しく力強い、私が大好きな競技、シンクロナイズドスイミング。井村ヘッドコーチの「地獄のような」猛練習に耐えた自信が、水面上に出た時の8人の表情に表れていた。素晴らしかった!。ウクライナに抜かれないか、点数発表を待つ時、ドキドキだった。同じく銅メダルを獲得したデュエットに続き、夢中で見続けた。井村さんが「中国を含めて9回オリンピックを経験したが、今回が一番猛練習をさせた」というのだから、極めて厳しい練習だったのだろう。元メダリストの解説者さえ「私たちが想像を絶する厳しい練習」と表現するのだから。
それにしても、今回のオリンピック、日本はメダル続出。次の東京オリンピック、これを上回るために日本のスポーツ界全体が猛烈にがんばることだろう。政治家としても日本国民としても、支援体制を作りたい。

戦没者追悼式、三歳で父失った遺族の言葉

15日、全国戦没者追悼式(日本武道館)に参列した。和服姿の女性(広島県の小西照枝さん、74歳)が遺族代表として述べた追悼の言葉が印象に残った。
お父さんが8月14日、フィリピンのルソン島で亡くなった時、「兄が10歳、私は3歳」だった。「戦死広報を受け取った時の祖父、祖母、母の嘆きはたいへんなものでした。これから、たくさんの田んぼをどうしていけるのかと」。(私の推測だが)お父さんは出征してから短くても半年以上、ひょっとしたら何年もたっていただろうから、三歳の女の子はあまりよく覚えていない父の死より、一家の大黒柱を失った祖父母や母親の悲嘆ぶりの方が印象的だったのだろう。
さらに「のちに横田庄一さん、小野田寛郎さんが生きて戻って来た時、祖母は、息子が生きていてくれたなら、持っている全財産を投げ出しても迎えに行きたい、と悲しんだ」と振り返り、「私も大人になり子供を持って、息子を失った母親のつらさが理解できるようになりました」と話した。
私の亡父は昭和2年生まれで戦争に行かなかったギリギリの年代だ。もっとも、私は両親から空襲で逃げ回った体験を聞いた最後の世代だと思う。
父は長兄をニューギニア戦線で失った。飛行場建設中に爆撃を受けたらしいが遺骨は戻らなかったという。父が育った家には若い軍服姿の写真が飾られていたが、6人の子供の中で最も優秀だったという長男の死を祖母はどう受け止めていたのだろうか。私が20代の終わりに90歳で亡くなった祖母 はこの秋、三十三回忌を迎える。

衆議院選挙向け、細田幹事長代行戒め

現体制、最後の副幹事長会議が2日、国会内で開かれた。谷垣幹事長がメイン席にいらっしゃらないのが寂しい。
細田幹事長代行が「参議院選挙は、勝ったということになっているが、次の衆議院選挙は甘いものじゃない。今回、1人区は10敗している。三年前はわずか2敗だったのに。衆院選でも、共産が全選挙区で候補者を立てず、野党が一本化すると考え、それでも勝てるよう各議員が態勢を作っておかなければいけない。共産党が立ててくれればもうけものだ、くらいに考えて。前回、得票率51%以上だった人以外は全員危ない」と非常に厳しい挨拶をした。
各選挙区事情に詳しく、選挙分析の神様的存在の細田氏の発言だけに、ずしりと重い。

「27年ぶり単独過半数」と総理感慨

臨時国会が1日から始まった。参議院議長など参議院の役職を決めるのが主な目的で3日には終わる。それでも1日午後の開会式には天皇陛下が来られた。本当にご公務が多い。
安倍総理が両院議員総会で「参議院が自民党単独で過半数となったのは27年ぶり。私の議員生活より長い。一度失った信頼を取り戻すのは本当に難しい」と挨拶。
27年前(1989年)の参議院選挙と言えば、宇野首相の女性スキャンダルもあり、自民党は敗北。社会党の土井たか子委員長が「山が動いた」と叫んだ大勝利を収めた。マドンナブームと言われて女性議員が続々誕生。
安倍総理の衆議院初当選は1993年夏(この直後、細川非自民連立政権)だから、たしかに四半世紀を超す「27年」は長い。
私はその時はまだ朝日新聞経済部の記者だった。だが、マドンナ議員と呼ばれた社会党新人議員たちを眺めながら、「私の方が政治家に適しているのではないか」という思いを抱いたものだった。
その後、私は政治部へと異動。日本新党ブーム(小池百合子都知事や茂木元経産相、鴨下元環境相など立派な政治家として生き残っている人も多い)で、従来型(政治家の家系や地元実力者)でない新人が議員になることに大きな関心がわいた。
それでも、私は自民党にこだわっていたところ、自民党の(初めての)野党転落、小選挙区制への大変革という画期的な流れの中で、(あらゆる政党で史上初めての)候補者公募が行われ、1995年
2月に朝日新聞を辞めて政治の道に入った。総理の言葉から、そんな歴史を思い出した。

                                             

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