主権回復・国際社会復帰記念式典に出席して

26shuken034月28日、初めて開かれた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に出席した。

国会近くの憲政記念館で開かれ、招待状が出されたのは国会議員、政党党首、知事、中央官庁の事務次官など、ごく限定的だったようで、出席者も約390人と小ぶりだったが、安倍総理の式辞、伊吹衆議院議長の挨拶が素晴らしく、涙がこみ上げるとともに、今日の日の意義を、日本国民が頑張って生きてきた戦後史とともに、まわりに語っていかなければならないと心に誓った。

(この日は地元行事が立て込んでいたが、この式典出席は国会議員の務めだと考えたし、歴史を学んできた者として、もっと大規模に開催できる日がくることを念願しているので、式典を優先した。)

天皇皇后両陛下が正面、壇上にご臨席され(天皇陛下のお言葉はなかった)、左側に総理、麻生副総理、菅官房長官の席、右側に衆参両院の議長と最高裁長官の席。私は「委員長席」で、前から3番目、ほぼ中央という恵まれた位置につくことができた。

61年前の昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は連合軍司令部(実質、米国)の統治下から独立を回復した。昭和20年8月15日の敗戦から7年近く、日本は独立国ではなかったのだ。そして、日本の2000年に及ぶ長い歴史のなかで、他国に占領されたのは、この期間だけである。私がこの日を重視するのは、こうした事情による。自民党はかねて、60年の節目の2012年に「主権回復の日」を設けたいと考えていたが、昨年は民主党政権だったので、実現できなかった。

安倍総理は「61年前の本日は日本がサンフランシスコ講和条約の発効によって主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとした日だ。これまでの足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」と「主権回復の日」の意義を語った。
総理は敗戦後の厳しい日々を、昭和天皇のお歌を引用して語った。

 「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」

「国敗れ、まさしく山河だけが残ったのが昭和20年夏、わが国の姿だった。昭和21年1月1日、国民の多くが飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬をひたすらしのごうとしていた時に、この歌が詠まれた。しんしんと降り積もる雪の重みに松はひたすらじっと耐えている。人もこのようにありたいと。多くの国民において心は同じだっただろう」(「飢餓線上」に涙が出た)

そして迎えた昭和27年4月28日。「主権が戻ってきたとき、私たちの祖父母、父、母は何を思ったか。今日は国民一人ひとり深く考えてみる日なのだと思う」
61年前のこの日、国会は衆参両院で4項目の決議を可決、その中に、国連への早期加盟があった。

「しかしながら、我が国はしばらく国連に入れなかった。国連加盟まで一人前の外交力を回復するまで、4年と8か月近くを待たねばならなかった。」
(昭和31年12月。シベリア抑留兵の最後の帰還がこの時期である。=筆者注)

主権回復の翌年には賠償の一環として、ビルマに発電所を建設。これは今でもしっかり動いてミャンマーの経済に役立っている。33年にはインドに対し、最初のODAを供与した。
(このあたり、国際社会の一員たらんと躍起になった先人に思いを馳せた)

総理は、「(主権回復から)わずか12年後に東京オリンピックを開催。自由主義陣営で世界2位の経済大国になるのに20年かからなかった」
(私は晴れがましさに胸が熱くなる。祖父母、父、母の時代は本当によくがんばった。私が生まれる前から小学校までのことだ)

「その日に奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離されてしまった」ことに、安倍総理は、強いメッセージを発した。

「とりわけ銘記すべきは残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が長く日本から離れたままだった。」

「『沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない』。佐藤栄作首相の言葉です」と紹介し、

「沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日。日本全体の戦後が本当に終わるまで主権回復からなお20年という長い年月を要した。沖縄の人が耐え忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通りいっぺんの言葉は意味をなさない。」と。

開始前に配られた薄いパンフレットの「式典の挙行に当たって」という安倍総理の文章にも「苦難を耐え抜かれた先人の心情に思いを致し、沖縄の基地負担の軽減に取り組む」と書かれてあった。

伊吹衆議院議長の挨拶で心に響いたのは、「サンフランシスコ講和条約発効により主権を回復した昭和27年4月28日とは、日本の制度や法律を日本人が決めることができるようになった日。選挙により国民の代表となった国会議員はそのこと及び、国家とは何かをよく考えなければいけない。世界には、特定の権力者または特定の血族、特定の宗教者のみが力を持った国が、歴史上あったし、また、現在もそのような国がある。私たちの国はそうではない。」

総理の式辞、衆参議長と最高裁長官の挨拶の後、杉並児童合唱団が4曲を歌った。(小中高。ほとんど女子。低学年のみ男子が少しいた。名門で区外からも参加しているそうだ)

「手のひらを太陽に」(昭和36年)
「翼をください」(昭和46年)
「BELIEVE」(平成10年)
「あすという日が」(平成18年)

最初の3曲は、主権回復からの61年を3等分し、それぞれを代表する前向きの曲を選んだそうだ。

「あすという日が」は東日本大震災後に、仙台の合唱団が避難所となっていえる体育館で歌ったことから復興の歌として広まった曲。
私は、高校1年で知った「翼をください」が大好きで、思わず、小声で口ずさんだ。

式典開始前の弦楽四重奏(女性の奏者ばかり)はチャイコフスキーなど普遍的なクラシックを数曲演奏した。日本の歌はなかった。
いずれの音楽も、まったく右翼的ではなかった。

政府の考えから、天皇陛下のお言葉はなかった。
ところが、式典終了後、まったく予測もせぬことが起きた。壇に向かって右側、真ん中あたりの議員が突然、「天皇陛下万歳!」と声を挙げたのだ。

私は一瞬悩んだ後、自然な気持ちで2度目、3度目の唱和に加わり、万歳をした。
陛下は前方出口の手前で会釈されたが、ほんとうはご迷惑だったのかもしれない。
隣席の佐田衆議院議員運営委員長が「陛下は天皇陛下万歳と言われるのがお嫌いなんだ。入場の時に我々が頭を下げるのも、おいやで、『顔をあげてくれて、目を合わせたい』と思っていらっしゃるそうだ」と教えてくれた。議運委員長は、国会の開会式の段取りなどに関係する立場だから伝え聞いているのだろう。もっとも彼も、思わず万歳してしまっていたようだが。

 

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